2002/7/28 日曜日
音楽漫才の第一人者はなんといっても「横山ホットブラザーズ」である。今や横山ホットブラザーズといえば「おまえはアホか」のノコギリ芸、という認知のされかたで非常に残念である。他にもいろんな趣向を凝らしたネタがあって台所用品などの日用品で作った楽器の演奏や、昔は吉永小百合の顔写真を貼った人形とタンゴを踊りながら、下着を脱がしていくというのもあった。音楽漫才、音曲漫才、歌謡漫才がだんだん少なくなるのは淋しい。70年代初めの角座、「かしまし娘」が舞台に登場して最初のフレーズを奏でただけパッと華やいだ空気になった。楽器を用いた漫才といえば他にも「宮川左近ショー」、「暁伸・ミスハワイ」、「タイヘイトリオ」、「フラワーショー」、「三人奴」、「東洋朝日丸・日出丸」、「あひる艦隊」、もっと新しいところでは「ジョウサンズ」、「ちゃっきり娘」、Mr. オクレがいた「ザ・パンチャーズ」などなど。音楽漫才というのではないが、「三遊亭小円・木村栄子」の漫才も小円が三味線を抱えることがあったし、ぼやき漫才の「人生幸朗・生恵幸子」も途中で生恵幸子の歌があってから歌謡曲のぼやきに移っていた。音楽漫才の多くにはテーマ曲がつきもので、今ではとても懐かしい。私自身、ルーチンな計算をしているときなどに「なにがぁーなぁーんでもーこのコンビぃー」とか「夢路さん、ハイよー」と口ずさんでいるときがある。それらを集めたCDが発売されることを切に願う。もちろん横山ホットブラザーズのは新旧両バージョンとも収録してほしい。
最後に懐かしいTVコマーシャルを一つ。「あんたほんとにウィッグやね」、「なんでウィッグやねん」、「ムシの好かん人」、「衣類の虫よけにウィッグ、ウィッグ防虫錠」
2003/3/26 水曜日
今年度の春の学会は東京で開催されたので、「お笑い分科会」の数学者仲間(全員関西出身)と新宿駅南口のルミネtheよしもとの7じ-9じの公演を見にいく。劇場は450席あるが、横に細長くて前列の脇からは演者は見づらい。若い女性が多かったが、中年男性もちらほらいたのでとりあえずホッとした。出演者は登場順に COWCOW、じゃぴょん、陣内智則、ニブンノゴ、水玉れっぷう隊、千原兄弟、それとよしもと新喜劇(板野創路、ホンコン(蔵野孝洋)、島田珠代、2丁拳銃ほか)であった。前半では陣内智則と千原兄弟が秀逸であった。卒業式間近に転校してきてすぐに卒業式に臨む中学生を演じた陣内智則はMD との掛け合いで一人でやっているが、あれは絶対に漫才に分類されるべきだ。千原兄弟は、いじめられっ子を息子に持つ母親の記者会見というコント。シュール系である。「ゼリーをとおして見える息子の悲しげな顔」なんていう発想はどこから生まれるのだろう。じゃぴょん(旧ウルグアイパラグアイ)はタレント養成学校のオーディションを受けにきた女性を演じた人(桑折)のレオタード姿での登場でインパクトを与えるつもりだったのだろうが、カツラが落として観客の集中を頓挫させたのが失敗だったと思う。水玉れっぷう隊は東京では「あいつら誰?」という感じ。まだまだ精進せなあかんね。
よしもと新喜劇はホンコンがいい味を出していたが、辻本茂雄や内場勝則、烏川耕一、安尾信之助らがマルチで息もつがせず畳みかけるようにつっこみぼけたおす吉本新喜劇を知っているだけにすごく物足りなかった。それに間延びしてだらだらしていた。甘栗や蓄膿ネタであんなにひっぱる必要があるのか。45分ぐらいで十分だと思った。
2003/10/4 土曜日
世の中には、この人にはいつまでも生きていてほしいと願う、いやいつまでも生きているのだと自分勝手に信じている人たちがいる。私にとっては夢路いとし・喜味こいしと桂米朝がそうである。(この日記では敬称を略しているが、私には「いと・こい」師であり、桂米朝師である。)つらいことだけど、一人については、いつまでも生きていてほしかった、と過去形で記さないといけない。9月25日(木)夢路いとし死去。
いつまでも生きていてほしい、というのは親しい人に対して抱く感情である。それほど、いとし・こいしの存在は身近かであった。関西の人なら、人生のどの段階を輪切りにしても、遠景にせよ近景にせよそこにいとし・こいしが見つかるに違いない。
いとし・こいしの漫才は日常の情景を戯画化したものが多い。たとえば、いとしの家では妻のかけ声で食事の内容が分かるという話。「あなた、めし〜」では、ご飯とみそ汁に香のものだけ。それにおかずが一品つくと「あなたごはんよ〜」になる。すき焼きをやろうものなら「あなた、晩餐会よ〜」(そんなおおげさな。)その翌朝は「あなた、フルコースよ〜」と。「朝から洋食食べんのか?」、「いや、昨日のおかずの残りもんやから、古コース」。
--いとしの家で家族旅行の計画を相談した。妻はアメリカに、娘はリオ・デ・ジャネイロに、息子はマカオに行きたいといって、意見がまとまらない。結局アメリカのアと、リオのリとマカオのマをとって有馬温泉にでかけることにした。演目として生き残っていく落語のネタとちがって一過性のものが多い漫才のネタのなかにも、繰り返しの傾聴に耐えうる名作がある。いと・こいの漫才に名作は多いが、やはり落語と違って彼らがが演じないとそれらが活きないだろうことが残念である。それでも巡査が不審者に職務質問をする「交通巡査」--「名前は?」、「いま、ゆうぞ」、「早いこと言わんか」、「いま、ゆうぞー」、(いらいらして)「すっと名前を言えんか」、「そやから、さっきから、いまい・ゆうぞう、というてますがな」--は落語の「寿限無」や「東の旅」のように、漫才入門のお手本となるだろう。(国語の教科書に採用してくれないかな。)
2年前、浪花座のお盆興行でいとし・こいしの漫才を聴いた。舞台の袖に姿を現してからセンターマイクに進むまでかなりの時間を要したが、その間、観客は暖かい拍手を送りつづけていた。漫才に入ると声量も大きく言葉もハッキリしていて、「漫才の基本」はこうあるべきというのを見せられたような気がした。それだけではなく掛け値なしにその日の演目の中で一番面白かった。
2004/3/15 月曜日
(名古屋大学大学院多元数理科学研究科での)ホームページ上の「お笑い日記」はこれでお終いなので、漫才の終わり方についてちょっと書いてみたい。漫才の締めくくりで印象に残っているは、なんといっても平和ラッパ・日佐丸。「こんなアホつれて漫才やってまんねん」、「ほんまに気ィつかいまっせ」、「それはこっちの云うせりふやがな」、「ははぁ、サイナラー」(このサイナラの「サ」は sha のように発音する。)音楽ショウの「これでお終い、かしまし娘・・・」や「それじゃここらで、それじゃここらで・・・」のようにエンディングが決まっているものにせよ、宮川左近ショウや暁伸・ミスハワイのようにネタのまま終わるものにせよ、ぐっと盛り上がったところで最後にかき鳴らすギターの音が好きだ。Wヤングの最後はダジャレ合戦で、たとえば都道府県名のシャレなら、「もうこのへんでオキナワ県」で終わる。若手ではルート33も最後は落語のサゲに近い終わり方だ。終わり方に仰々しい趣向を凝らしている若手漫才もあるが、サラッと終わったほうが逆に余韻が残るのではないだろうか。
先日、DVD で「水の女」という映画を見ていたら宮川左近ショウの松島一夫が銭湯で浪曲を唸っているシーンがあった。懐かしかったなあ。映画にはラジオ深夜便の「芸能博物館」やミュージック・ソーの演奏で知られる都家歌六も出演していた。
ところでホワイトデイは、昔、ラジオ大阪の深夜番組「ヒットでヒット、バチョンといこう」の浜村淳担当日(土曜日か日曜日)に、ある女の子から「バレンタインデイのチョコレートお返しに、3月15日にマシュマロを送ろう」という投書があったのがきっかけで始まったのだと思う。
2004/9/12 日曜日
随分前のことになるが、3月初めに大学院生たちと卒業ゼミ旅行に出かけた。行き先は大阪。最初の目的地は「なんばグランド花月」。私は会議があったので学生たちを先に行かせて、後から追っかけた。グランド花月に着いたときは、B&Bの漫才の途中で、それが終わるともう吉本新喜劇であった(出演:桑原和男、川畑泰史、小薮千豊他)。桑原和男が台本をとつおいつ思い出しながらしゃべっているようで「ウー」とか「エー」が混じり、せりふをうまく回せていない。
新喜劇がはねてから「桂ざこば一門会」鑑賞のためトリイホールに移動する。演題は「米揚げ笊」(桂ちょうば)、「書き割り盗人」(桂出丸)、「肝つぶし」(桂ざこば)、「ギター演奏」(桂ちょうば)、「いらち俥」(桂わかば)、「都んぼのウィークエンダー」(桂都んぼ)、「一人酒盛」(桂都丸)それと一門総出で大喜利。「都んぼのウィークエンダー」は日本昔話を「ウィークエンダー」風にアレンジして紙芝居で見せるという趣向。「ウィークエンダー」というのは、三面記事の事件を再現フィルムを交えて紹介するレポーターの桂ざこば(当時朝丸)や泉ピン子(それと後に日活ロマンポルノに出て話題になった人がいたな。名前は何だたっけ?)が売れ出すきっかけとなったかつてのテレビ番組である。「タッ、タラッタ、タッタァー」というトランペットの音が鳴ると観客席から「ああ懐かしい」という感じの声があちこちから漏れた。
ーその頃の朝丸というと、中学生の頃かなあ、阪急8番街でのイベントで「動物イジメ」を聴いた昔の日を懐かしく思い出す。あの頃はけっこうミーハーでキャッシー(キャサリン・モリス)という人見たさにMBSラジオの公開録音を見に行ったこともあった。横山プリンを見て声だけでは決してその人物の姿は想像できないものだということがよくわかった。そのときのゲストが朱里エイ子で「北国行きで」を口パク(多分)で歌っていた。(合掌)ー
都んぼが、「ウィークエンダー」で全国的に知名度を上げた頃の朝丸が30代初めで、自分はもうその年齢を超えているのに、会場の人でさえ私を知らない人がほとんどだと言っていたが、当時は落語家そのものが少なかったから、活躍のチャンスも多かったんだろね。四天王は別として、そこそこ売れていたのは仁鶴、三枝、可朝、鶴光、小米(のちの枝雀)、春蝶、朝丸ぐらいだったから。
司会の小米朝と負けず劣らず端正な顔立ちの出丸は初めてだが、面白く聴けた。私は大満足だったが、後で学生に尋ねると噺の内容が良くわからなかったらしい。今では使われていない品物の名前などがあると、それが何かわからないのでイメージが浮かび上がらないのかも知れない。その点は出丸も心得ていて、まくらで「米揚げ笊(いかき)」に出てくる「大豆、中豆、小豆(こまめ)」というのは、実は豆の種類ではなく笊の目の大きさ、「おおまめ」は「大きな目」、「こまめ」は「小さな目」を意味している。でもそんな細かい知識がなくても、「大豆、中豆、・・・」だと誤解していたとしても噺は楽しめるでしょ、というようなことを言っていたのだが。
ざこばの噺で好きなのは「堀川」や「天災」だが、今回は「肝つぶし」である。ちょっと凄惨な話である。ざこばは、話の途中で泣き出してしまい、素に戻って後の展開のあらすじを言って終わってしまった。
落語のトリは桂都丸。今回初めて松鶴以外の「一人酒盛」を聴いた。もとは東京のネタであったらしいが、桂南天から米朝、米朝から枝雀へと継承された(桂米朝落語全集第2巻)。「柴漬け食いや」や「なんにもしてもらわいでもええねん」の執拗な繰り返しといった枝雀の特徴がみられたことから都丸は枝雀から受け継いだのだろう。最近知ったことだが酒の噺は難しいらしい。鶴瓶との対談で、春団治や文枝でさえ酒のネタはできないと語っている(六世笑福亭松鶴はなし)。その難しい酒の噺を都丸は見事に薬籠中のものにしている。名人芸を見せてもらったという気分になった。
落語会が終わって、学生たちへの名所案内のつもりで法善寺・水掛け不動やくいだおれ人形、戎橋のグリコのネオン広告に立ち寄り、それからたこ焼き屋の2階に陣取って、うまいたこ焼きをつまみながらビールを飲み、「やっぱり大阪はええなあ」を連発し、そして宿に戻った。
最後の一門総出に出演していた桂喜丸さんが、しばらくして亡くなられた。さあこれからというときだっただけに残念である(合掌)。
2005/1/10 月曜日
ここに掲載している私の拙い文章を読んで、たまにメイルや葉書を送ってくれる人がいる。まことに有り難いことである。今日はどうして私が演芸好きになったのかということを私の履歴書のつもりで書こうと思う。ただし落語の話が中心となる。
私は小さい頃からテレビでよく演芸番組を見ていた。土曜日・日曜日のお昼は私にとってゴールデンアワーで吉本新喜劇と道頓堀アワー、松竹新喜劇は必ず見ていた。ちなみに吉本新喜劇は土曜日の朝日放送のと日曜の毎日放送の中継があり、朝日放送のはおなじみの「プンワカ、プンワカ、プンワカ〜」のテーマ音楽で始まり、毎日放送のは大正製薬提供の「サモン・ゴールド劇場」と題して、テーマ音楽も上品なジャズで(「吉本ギャグ100連発」のビデオで聴ける)コマーシャルを兼ねた島田洋介・今喜多代の漫才の後で幕が開いた。その頃の吉本新喜劇ではしっかりとした1つのストーリーが進行していたように思う。秋山たか志という人のマドロス姿が微かに記憶に残っている。(後に革命といえるぐらい吉本新喜劇の姿を変えたのが間寛平と木村進である。)
テレビで桂米朝、笑福亭松鶴、桂春団治らの落語を見聴きしていたので、落語がどういうものかは知っていたと思う。笑い話を集めた子供向きの本を持っていて、ある日、通っていた今は亡き(堺市にあったのだが、あるいはどこかへ移転したのだろうか)幼稚園で、その本で憶えた「寿限無」を落語家の見よう見まねで皆の前でしゃべったら、「じゅげむ、じゅげむのごこうのすりきれ」と名前を繰り返す場面あたりから次第に笑いが起って最後は先生も含めて大爆笑であった。人前でしゃべってこんなに受けたのは後にも先にもない。しかし落語家になろうとは思いもつかなかったし、当時は落語以上にゴジラやガメラやギララやガッパなどの映画の怪獣の方に執心であった。
大阪にも大喜利番組があって、「道頓堀アワー」の一つのコーナーだったと思うが米朝が司会で、解答者は桂文紅、桂文我、桂小米、吾妻ひな子(他に誰かいたかな?ちなみに文紅は私の高校の大先輩である)。こちらは良い答えには座布団も何もくれないのだが、悪い答えだと顔に靴墨を塗られる。最初は筆で一筆・二筆塗られる程度だが、最後は手で墨をなすりつけられるようになり大抵は小米の顔が真っ黒になって終わった。後から思うと小米は米朝の弟子なので、墨をつけやすかったのだろう。お題を提供した観客にサイン入り色紙を「台所の油虫除けのお呪い」といってプレゼントしていた。
以前にも書いたが、小学校高学年から中学にかけての、とにかく笑福亭仁鶴が出ている番組であれば何でも見るぐらいに仁鶴、仁鶴で日が明け暮れていたそんなある時、仁鶴のレコードを見つけて買った。「牛褒め」と「崇徳院」が収録されていたのだが、不思議なことにそれを聴くまで仁鶴が落語家であることをまったく認識していなかった。私の中で、今でいうなら明石家さんまのような存在だったのだろう。その仁鶴が古典落語をやることにまず驚いたし、また初めて聴く「崇徳院」に、落語には若者の恋を扱うような噺もあるんだと落語の世界の広がりに気づかされた。もちろんメチャクチャ面白かった。それまでは道頓堀アワーで聴いた「角力場風景」、「祝いのし」などの限られた噺で私の落語の世界は尽きていたが、仁鶴さんのおかげで古典落語を再認識することができた。高校時代は受験勉強のせいで特に演芸についての思い出はない。一つだけ試験かなんかの前日に花王名人劇場で中田ダイマルの追悼番組をやっているのを家族がケラケラ笑って見ているのに私は我慢して見なかったことが悔しい思い出として残っている。
大学生時代後半からに定期的に桂米朝の正月の独演会を聴きに行ったり、春蝶や枝雀(前出の小米のこと)が「地獄八景」をやるからと聴きに行ったりした。(春蝶の「地獄八景」は、三途の川の渡しで船頭の鬼が船賃を徴収するとき、交通事故で死んだ者は乗っていた自動車の車種で料金を設定していた。)松鶴の紫綬褒章受賞記念の落語会にも出かけたが、会場の入り口で鏡割りの酒をふるまっていて、私は恐れ多くも松鶴師匠の手から枡をいただくことができた。私が落語家に第三種接近遭遇(別に落語家をエイリアンと思っているのではなく、単に至近距離まで行ったという意味で)できたのはこのときと、後に静岡で桂米朝独演会を聴きに行った時に米朝グッズの販売を手伝っていた桂雀司(現・文我)さんにサインをもらったときと、一昨年名古屋大学理学部の広報委員会が卒業生の三遊亭圓王さんを招いて落語会を開催したときの3度だけである。(まだ圓王さんが新窓と名乗っていた20年ぐらい前に京都・誓願寺の安楽庵策伝忌の落語会で彼の噺を聴いたことがあるので懐かしかった。)
桂枝雀は、以前記したように私に「お笑い三聖人」の一人である。師匠の米朝に失礼かもしれないが(それに米朝は私にとって落語界のカラヤンであり、米朝の落語と基準として考える癖があるから、米朝以外の誰しもが基準からずれることになってこんな言い方が成り立つのかどうかも問題だが)彼の功績を考慮しても希代の落語家として芸能史に名が残るのは(初代桂春団治と)枝雀だと思う。枝雀の立場はそれほど特異であり、人が落語を語っているのではなく、まるで落語が人間の形をとっているような存在であった。枝雀の独演会に行くと、前座で出てくる枝雀や米朝の弟子たちも訓練されていて面白く、よく笑えるのだけれど、枝雀の場合は笑い声の出所が違った。腹の底から笑い声が出る、というより五臓六腑から皮膚細胞一つ一つに至る体全身が笑うのである。
枝雀の落語は「枝雀落語」としか言いようのないぐらい一つ一つの噺を徹底的に再構成し究極の形につき詰めたものであった。だから枝雀のネタには軽重がない。静岡に居た頃、枝雀の落語会があるというので清水市民文化会館に聴きに行った。演題は「時うどん」。こちらの人は落語に馴染みが薄いからといって「時うどん」というのはあまりにも軽いネタであり人を馬鹿にしてはいないか、と思った。しかしそれは今まで聴いたことのないとてつもない「時うどん」であった。話の中にいっぱい伏線を張ってあってそれらが後で次々を爆笑を引き起こした。主人公の男が汁を啜るたびに「からーっ」と言うのを執拗に繰り返すので、この男が昨夜一文ごまかした友人がやったことを忠実に真似をしなければいけないことを学習済みの観客は、男が麺を食べ終わってふっと鉢をのぞき込む瞬間にどっと笑うことになる(この後、男は辛いおつゆを飲み干さなければならない)。「時うどん」のようなネタでも枝雀の手にかかると爆笑落語に変じる。枝雀の落語が「枝雀落語」としか呼びようがないということは、米朝・春団治の「代書屋」と松本留五郎氏が活躍する枝雀の「代書」を聴き比べてもらうとわかってもらえると思う。ついでに書くと私は「米揚げ笊」の従来のサゲより、トントントンと上がり調子に来て勢いのいいままに終わる枝雀のサゲの方が好きである。
また枝雀は独自の造語・表現を生み出す名人であった。「宿替え」における「神経がわからん」といった表現や「地獄八景」の「コツコツ言いなはんな」、「土地の者は見てはいけません」、「愛宕山」の「ネソネソ歩いてられまへん」。彼のいろんな落語を横断して出てくるギャグがあって枝雀の落語をよく知る観客との親密度を高めるのに役立っていた。「うちのオカンも言うとったなァ、おまえももうちょっと落ち着きさえすりゃフツウの人間や」。
84年に静岡に移ったとき、枝雀の落語に接する機会が少なくなるのが悲しいことであったが、ありがたいことに沼津に落語を愛好する人たちがいて毎年一回、年末または年始に枝雀独演会を開催してくれたので、この落語会に出かけることが私の年中行事の一つとなり、静岡市からわざわざチケットを予約するような人は他にいなかったのか、そのうちプレイガイドの人が私のことを憶えてくれるようになった。独演会からの帰りの電車の中では一年ぶりの枝雀の落語を堪能して幸せな気分に浸っていた。
枝雀はオーバーアクションで知られたが、客受けを狙ってそれを始めたとは思えない。照れ屋であるゆえ、派手な動きで彼の落語の計算し尽くされた緻密さをカモフラージュしたかったのだと思う。だからそうした操作ができないとき、たとえばNHKの「お好み演芸会」の薬にも毒にもならない大喜利では東京の落語家に交じって借りてきた猫のようにしていたし、大阪でも朝日放送の「笑ってゴーゴー」では一方のチームのキャプテンだったがパーティグッズの眼鏡と付け鼻で顔を隠していた。それにしてもわからないのは、枝雀が「地獄八景亡者戯」の閻魔の出御でどうしてへらへら笑う閻魔を演出したのかということである。この落語のハイライトであり、四人の亡者が活躍する後半の話への場面転換のめりはりとして観客を緊張させなければいけない場面である。私は枝雀の恐い顔の閻魔が見たかったし、もし恐い顔ができなかったのならば、そこに枝雀落語の限界があったのだろう。
しかし限界があると思ったからこそ私は枝雀の落語をただただ愉快に聴けたのだと思う。そうでなければ、あの独特な世界にはまりこんだまま枝雀落語中毒から抜け出せなくなる危険性があった。随分以前になるが友人との会話で次世代の上方落語を担うのは誰かと議論したことがある。彼は雀々と答え、私は吉朝と答えた。静岡に移ってしまったので短い期間であったが一時期桂吉朝の追っかけをしたことがある。京都の芸術文化会館や大阪の太融寺の吉朝・雀松二人会などにせっせと通った。吉朝の魅力は肩ひじを張らない話しぶりと口吻の切れの良さである。枝雀が上方落語の系譜における一つの特異点であるのに対し、彼は米朝の落語の正当な継承者である。しかもときどきすごい破壊力をもって笑いを誘発させる。ー昔太融寺の落語会で吉朝の「お血脈」という落語を聴いた。信濃の善光寺の「血脈の御印」という一種の免罪符のせいで地獄に亡者が来なくなり、少(亡者)化対策のために閻魔たちが合議して、石川五右衛門を派遣して「血脈の御印」を盗ませようと画策する話で、上方落語では「善光寺骨寄せ」という題であるはずだが東京落語の「お血脈」の題でやっていたと思う。マクラで宗教・宗旨の話をした最後に「他にも宗教にはいろいろあって、金目教とかね・・・ご存知ですか」とボソッと言った。そのとき客の反応はなく、私もしばらく経ってから「金目教」が何かに気づいたので、おかしくてたまらなかったが必死で体をひくひくさせながら笑いを押し殺した。(「金目教」とは仮面の忍者赤影で出てきた宗教集団。)
去年の4月に松江に移動して新聞が大阪本社発行になったおかげで関西の情報が入るようになったが、10月31日付け紙面で桂吉朝体調不良のため休養との記事を見た。いち早い快復を祈る。昨年はほとんど生の演芸を観ることができなかったが、「六世笑福亭松鶴はなし」、「いとしこいし、漫才の世界」、「桂米朝集成、第1巻、第2巻」(いずれも岩波書店)が出版されて実りの多い年であった。戸田学という人の活躍には目を見張るものがある。「初代桂春団治落語集」(講談社)も購入したが、より詳しい用語の解説集がないと読めたもんではない。それにどうして「野崎詣り」が収録されていないのだろう。ー「おう、船ン中のモン、えらい動物に詳しいなあ。ほならライオンが死んだらどないなんねん」、「おおかた歯磨きになんねやろ」