「お笑い」日記

あくまでも個人的な忘備録です。
芸人さんの敬称略

NHK新人お笑い大賞,NHK新人落語大賞,三日月ヶ浜の「空手」・・・(2021/12/22 水曜日)

今年は八月に笑福亭仁鶴が,十月には柳家小三治が,年末になって川柳川柳,三遊亭圓丈がこの世を去った。不思議な感じがするが,松鶴や米朝ではなく私を古典落語に誘ってくれたのは仁鶴であった。2018年7月に松江プラバホールで小三治の噺を聴くことができたのは幸いであった。川柳は東京の寄席で二度は聴いた。どちらも同じネタだったが,そのおかげで「うみ〜のおとこのかんたいきんむ,げつげつか〜すいもくきんき〜ん」が脳内再生されるときは川柳の音声になっている。圓丈は生で聴いたかどうか記憶に定かではない。川柳と圓丈は三遊亭圓生の弟子である。圓生はすごかったんだと思う。

前田五郎と正司敏江も亡くなった。今となっては1970年代のコメディNo.1の人気のすごさは若い人には伝わらんやろな。—「あっちこっち丁稚」では毎回山田スミ子にビンタを喰らわされてたいへんでしたね。今年のM-1グランプリで優勝した錦鯉の渡辺隆の長谷川雅紀の頭のはたき方が敏江・玲児を彷彿させた。

毎年見ているのではないが,今年はNHK新人お笑い大賞とNHK新人落語大賞を見た。前者の優勝者は「ニッポンの社長」—食品会社への入社試験の面接でマヨネーズ愛をさんざん語っていた大学生が,一瞬そのことを疑わせる(今の言葉で言うと,マヨネーズをディスるような)ことをぽろっと口に出してしまう。その切り返しが見事で,もうその時点で私にとってはこのコンビが優勝であった。NHK新人落語大賞の女性初の優勝者が春風亭ぴっかり☆でも,立川こはるでも,露の紫でもなく桂二葉であったことに驚いた。そもそも彼女が優勝するとは露ほども思わなかった。昨年も出場したがちょっと線が細いなあと感じていたし,それに桂三度,桂華紋,東京で活躍しているが笑福亭羽光と続けて上方落語家が大賞をとっているので,今年の優勝者は自分では春風亭昇也だと予想していた。最後の出場者の二葉が演じた後「こりゃ彼女が優勝ではないか」と思ったが上の事情があるのでわからなかった。審査員が偉かったと思う。しかし「天狗刺し」で勝負するかねぇ(昨年も「佐々木裁き」というチャレンジングなネタであった)相対的に「権助魚」や「壺算」が無難なネタ選びに思えてしまった。

島根にいてはお笑いに関する情報は伝わってこない。M-1グランプリもリアルタイムに見ることはできない。幸い,予選も含めて動画で見ることができるので助かっている。三日月ヶ浜の「空手」が面白かったし,感心させられた。ミルクボーイのコンフレークより先であったら,優勝までいかなくてもかなりいい線まで行っていたかもしれない。「空手」が浜村凡平太のネタの改変だと知ったので関連する浜口浜村のYouTube動画をいくつか見た。これまでこの才能に気づかぬにいたことが惜しまれる。「空手」はフォーマットが定まっているので内容次第ではこども受けするのではないかと思う。お色気路線で売り出すつもりだったピンク・レディーがこどもたちが振り付けを真似を始めたことから人気が出て国民的スターになったように,まず,こどもたちにあのフォーマットを覚えてもらうのが三日月ヶ浜を世に出すきっかけになるのではないか,なので彼らが目指す番組は「おもしろ荘」ではなくて「わらたまドッカ〜ン」のような気がする。

新型コロナウィルス・・・(2020/3/31 火曜日)

島根大学が春の日本数学会(日本大学・駿河台キャンパス)での国立24大学法人数学系教室懇談会の幹事校であった。私が学科の代表になったので,会議の準備を進めていたのにコロナウィルス感染症拡大防止のために学会が中止になってしまった。2011年春の日本数学会(早稲田大学)のときは函数論分科会の責任評議員を務めていたが東日本大震災のために学会が中止になってしまった。私は桂歌之助か。

コロナウィルス感染症拡大防止のために19日に予定されていた卒業式も中止になった。その翌々日,「アマビエ」の絵を拝みに境港の水木しげる記念館に行った。このご時世にもかかわらず連休中ということもあって観光客で賑わっていた。この時期は妖怪「ボタンとうろう」が活躍する。「ボタンと〜ろ〜」,「ボタンと〜ろ〜」といいながら卒業式帰りの男子学生を襲って学生服のボタンを引きちぎろうとする。 —そんな妖怪はいません。鳳啓助を思い出したまでです。

くっしゃみ講釈について・・・(2019/8/19 月曜日)

落語「くっしゃみ講釈」を聴くと気になることがある。後藤一山の読み物が難波戦記のとき,私がこれまで聴いた落語家のすべてが「長宗我部宮内少輔秦元親」と言っている。言っているだけではない。あの桂米朝の上方落語大全集にさえ「元親」と書いてある。もちろん,「盛親」が正しい。師匠の教えは一言一句守らなければいけないという考えがこの誤りがが継承された理由だろうか? 訂正するとしたら官位が気になったが,盛親の場合でも「長宗我部宮内少輔秦盛親」で問題なさそうである。

似ているからといって・・・(2019/5/25 土曜日)

ハリセンボン春菜が角野卓造に似ていて,ドコモのCMで親子を演じてもいた。それで思い出したことがある。「今いくよ・くるよ」が出だした頃,「今いくよ,上方柳太の娘やで」という噂があった。私は大阪マルビルの会長の吉本晴彦氏を吉本興業の社長だと思っていた人も知っている。顔が似てるからと親子兄弟だと断定したり,名前が一致しただけで大阪の名物社長を大阪の他の名物企業に結びつけるのは,短絡的思考という点において幼稚園児がたまたま会話している若い男先生と女先生を見つけて,やれ恋人だ,結婚だと囃し立てるのとそない変わらない。

落語にでてくる私の好きな言葉(2018/4/7 土曜日)

おまえらの云うこといちいち気にしてたら,一日も生きてられへん  ( 三代目桂文我「短命」)

横町の質屋「十一屋」の若旦那がまた死んだ。"また”というのは三人目の養子さんが亡くならはったからで,どの養子さんも婿入りして一年経つや経たずで「青う細長うに,ひょろひょろーひょろひょろー」となって死んでしまう。二人目の若旦那が亡くなったときにこの落語の主人公の男が云った「二度あることは三度ある云いまっさかいに」のお悔やみ(?)に十一屋の番頭さんが応えたのがこの言葉。この番頭さんのように鷹揚に生きたいもんである。

ゆうべ寝るまでなんにも知らなんだんや  ( 桂米朝「持参金」)

この後「世の中ておもろいもんやな」と続く。借金の返済を迫られたり急な縁談が持ち込まれたり,いろいろあった日にふと漏らしたやもめの言葉。変わり映えのない日常が果てしなく続くように見えても,ひょっとしたら明日何かが変わるかもしれない。それを思うとなんとなく生きる元気がうまれてくる。1981年刊の米朝落語全集第3巻の「持参金」にはこのせりふはないが,2014年刊の増補改訂版にはある。(なお,「ゆうべ」のところは「ゆんべ」あるいは「よんべ」と聞こえるだろう。)

昔の落語会のチラシ(その2)(2016/7/23 土曜日)

落語会のチラシを追加します。桂春蝶の落語会は1982年と1983年,松鶴の落語会は1982年。春蝶は大ネタに挑戦していた。早すぎる死に本人がもっとも悔しい気持ちであったろう。

昔の落語会のチラシ(2015/12/28 月曜日)

今年に入ってまったくホームページを更新しないまま年の瀬を迎えてしまった。 安心して下さい、生きてますよ。(誰に向かって言っているのか。)昔の落語会のチラシを掲載します。上方落語ライブ100選の開催は1983年。私はどれを聴いたのか? 枝雀の「寝床」を含む10月15日の第2部か春団治の「お玉牛」を含む10月17日の第2部のような気がする。

桂文紅(2014/9/20 土曜日)

桂文紅(四代目)が大阪府立四条畷高校の先輩であることの証拠が見つかったので掲示します。

個人情報保護法の行きすぎの適用はなんとかならないだろうか。テレビ画面の無関係の人々の顔や建物にぼかしが入るようになったが,あんな不自然な映像は脳によくないのに違いない。

女優について(2013/11/30 土曜日)

私が子どもの頃に見た吉本新喜劇には高勢ぎん子、河村節子、南喜代子といった人たちが老女役で出ていた。高勢ぎん子がこの三人のなかでは見た目、一番品のよくてかわいいおばあちゃんだった。この人は榎本健一、古川ロッパ、エンタツ・アチャコと同時代に活躍した高勢実乗という喜劇俳優の娘である。南喜代子は「怪優」という印象がある。河村節子は元四代目ミス・ワカナで、南喜代子は三遊亭柳枝がミヤコ蝶々と別れて公私ともの相方にしたのだから(「上方漫才黄金時代」には柳枝・喜代子の漫才が収録されている)、若い頃は美人だったのだろう。

マドンナ役として岡八郎などの主人公に絡む女優陣といえば藤井信子、片岡あや子、山田スミ子、中山美保など。わたしにとって「なかやまみほ」は中山美保だったので,中山美穂がデビューしたときはすごく抵抗を感じた。1970年代に入っての楠本見江子や藤里美といったブス専門の女優が登場したことは,私にとってはかなり衝撃的で,しばらく,どう受け入れてよいのかわからなかった。もちろんそれまでも木村栄子や海原お浜のように容姿をとやかく言われる人はいた。しかし,うまく言えないが,ちょっと違った質のものなのだ。

ブス専門の女優誕生の経緯と彼女らの物語,そして男が演じるおばあちゃん(曾我廼家十吾、博多淡海、ばってん荒川、桑原和男など)の系譜を調べてみたいが、私の任ではないので、誰か代わりにやってくれないだろうか。

これは辛すぎる

笑福亭松喬死去。あの世でおやっさん(六代目松鶴)が怒ってはりまっせ。来るのが早いって。

松鶴は鶴三(松喬の前名)を「ド不器用」と罵倒していたらしいが,私には上手い落語家に思えた。この人は多くの人に可愛がられたのだと思う。笑福亭松喬ひとり舞台ファイナル(日本コロンビア)の演目も立川談志譲りの「ねずみ穴」の他に「はてなの茶碗」に「百年目」,松鶴一門から桂米朝のスパイかと疑われた(「おやっさん」(うなぎ書房)より)のもうべなるかな。

落語に出てくる丁稚さんをぷっくりさせたような容姿に愛嬌があった。しかし,NHKの「日本の話芸」で「網舟」を演じたときはその面影が消えていた。痩せ細った顔の横から突き出た耳がレレレのおじさんの耳の形に似ていて、そのどうでもよいことが妙に気になった。

桂吉朝のときもそうだったが,松喬の死は骨身にこたえる。どうしてもっと長生きして私たちを楽しませ続けてくれなかったのだろう。

(桂枝雀が死んだときには,どうしてか悲しさはなかった。後に相羽秋夫の本「惜別お笑い人」(東方出版)を読んで,それが私一人の感情の赴くところではないことがわかり少し安心した。)

追記:一年に一二度ぐらいしかホームページを更新しないので、ここをご覧になる方はほとんどいないと思うが(冒頭にあるようにあくまでも個人的忘備録です。− 辞書には「備忘録」とあったので、すこしあわてたが、「忘備録」でもよいらしい)たまには、他人(ひと)様の目に触れることがあるようだ。
「さいなら」の演目名を教えてくださった大阪市のY.Sさん(M.Sさんかもしれない)、伝説の漫才師佐賀家喜昇の舞台を実際に見たことがあるというS.Kさん、メイルをどうも有り難うございました。

漫才に関する3つの疑問

若井小づえ・みどりといえば、行かず後家の開き直り漫才。—「嫁にもぉ〜て〜、おっきがぁるに」

トップホットシアターでは海原千里・万里に、吉本移籍後も今いくよ・くるよに人気で先行されていた小づえ・みどりを、私は例の「判官贔屓」で陰ながら勝手に応援していた。1970年代には「あんた、そんな言い方ないと思うわ」と「どうせ私は○○○○よ。」(○○○○には松坂慶子などが入る)のギャグがあった。後者は「引き技」のギャグである。80年代になって「押し技」のギャグ「嫁にもぉ〜て〜、おっきがぁるに」が付け加わってパワー全開、快進撃が始まった。「おっきがぁるに」のときの、小ぶりのファイティングポーズをつくるような動作がコミカルだった。

もし観客から本当に「もろうてやる」と声がかかったらどうするのだろうか?というのが疑問であるが、これは解決済み。小づえは「言うとくけど、返品できへんで」と切り返していた。うまいこと言うなぁと思った。

人生幸朗・生恵幸子といえばぼやき漫才。—「責任者でてこーぃ!」

(幸朗)「みなさん私の顔見たら、ぼやきやぁ〜、ぼやきやぁ〜云いよる」、(幸子)「あたりまえや!この鼻くそ!」、「ここ、よう聞いとくんなはれや。なにも私が好き好んでぼやいてるんやない、世間が私をぼやかしとる」、「偉そうにぬかすな、天王寺の泥亀!」(注)

幸朗が一つ二つ世相についてぼやいた後で、幸子が歌謡曲を歌い出し、幸朗が「やめーっ、銃殺にするぞ」などのひとしきりあって、歌謡曲へのぼやきに移るのがいつものパターンだった。エンディングは、「わがままかってなことばかり、こんな漫才おもろないぞとのお叱りの声もなく、最後までご鑑賞くださいましたこと、ひとえに私の一人の人徳の致すところと(幸子:あつかましいわ)、皆様のご声援に感謝感激でございます。退場に鑑み、皆様のご健康とご幸福を心よりお祈り申し上げ、ぼやき講座これにて終了でございます。」

疑問は、たとえ冗談にでも、あるいは酔っぱらい客からでも「おもろないから、やめとけ」という声がかかったことは一度としてなかったか、ということ。まあ、1960〜70年代の人気を誇っていた頃の漫才に対しては絶対にあり得ないと思うが。

(注)「天王寺の泥亀」は終了30秒前を幸子が幸朗に知らせる合図だったらしい。ぼやきに取り上げた歌には、いったい何人がその歌を知ってんねんというのが多かった。

Wヤング(第一次)といえばしゃれづくし。—「ちょっと、きいたぁ〜」、「えらい、すんまへん」。

しゃれづくしは「栄光の上方漫才」(朝日放送ラジオ演芸ライブラリー編)で聞くことができる。

私が子供の頃一番好きな漫才だった。しゃれた漫才だけど、漫才の常套句もよく使用したし、寄席芸人の雰囲気や大阪のもっちゃり感も残していた。「花王名人劇場」で最初に売り出そうとしたのはWヤングだったらしいが、彼らが全国的な成功をおさめることができたかどうかは、私にはちょっと微妙に思える。しかしWヤングが古い漫才から新しい漫才への転換の起点になったのは確かである。

Wヤングに関する疑問とは(ひょっとしたら彼らとなんの関係もないのかもしれないけれど)、小学生の頃、ある朝学校へ行くと同級生がこんな歌を歌っていた。「正直爺さんポチ連れて、敵は幾万ありとても、桃から生まれた、もしもしカアカア、からすが鳩ぽっぽ。ぽーっぽ、ぽっぽで飛んで遊べ。霞は恋の吹き流し、なんと間がいいんでしょう」の最後が正直爺さんの「しょう」につながって元に戻り、延々と繰り返しになる。なに、それ?と尋ねると、Wヤングの漫才や、昨日の晩テレビでやってたと言う。私自身でその歌が出てくる漫才を見たかったのだが、結局その機会は訪れなかった。あの不思議な歌は本当にWヤングの漫才に出てきたのだろうか?

千葉蝶三朗再評価推進委員会 (2012/10/20 土曜日)

残念ながら、発売された松竹新喜劇のDVDの中で千葉蝶三朗の映像が収まっているのは少ない(2本ぐらいしかない)。私の中の千葉蝶三朗の記憶も薄らいできて、彼の台詞も所作もだんだん曖昧になってきているので、前にも書いたように、映像が残っているのなら今のうちに何らかの形で視聴できるようにしてほしい。とくに希望するのは、「てらて~ら」の「愚兄愚弟」、「ハンドルバッグ」の「裏町の友情」、そして「つけといてや」の「さいなら」。

「さいなら」の内容の一部を書くと — 馴染みの祇園の芸妓との結婚を反対された藤山寛美扮する薬種問屋の若旦那が、親の許しを得ようと狂言心中を企てる。家から持ち出した眠り薬を毒薬と偽り、これを飲んで一緒に死んでくれと迫る若旦那。千葉蝶三朗は縁の下に潜り込んで、芸妓の受け答えを帳面につける番頭役。芸妓がいじらしいことを言う毎に寛美が縁の下に向かって「つけといてや」。
この「さいなら」の演目名が長年不明だったが最近判明した。演目名その他の情報をメイルで知らせてくださった方(名前が不明ですが)、どうも有り難うございました。

「愚兄愚弟」の「てらて~ら」の場面。金魚屋の高橋は魚惣兄弟に責め立てられて、かなり切羽詰まった事態に陥っている。その深刻な状況のなかで唐突に近所の寺の盆踊り唄のいわれを説き始める。かんぴょう3年、カンムリ天皇が麦めしに鰯をお召しになられたところ「のどに骨た~てぇ~た。誰ぞ抜くもんないかいな。てらて~ら、て~らてら」 — 前後と何の脈絡もなく差し挟まれるこのシーンはシュールの極みである。

私は渋谷天外が亡くなったときに追悼番組として放送された「愛情航路」の録画を今も持っている。河合(小島秀哉)が力さん(藤山寛美)の食堂を悄然と出ていくのに合わせて鳴り響く汽笛の「ボー」にかぶせるように放たれる千葉蝶の芳さんの「たのんまっそー」。たったその一言がたまらなく可笑しい。

(注)芸妓役は月城小夜子。清楚な娘役から三枚目までこなせるオールラウンドプレイヤーとして女優陣のなかで独特のスタンスを占めていた。アホ役(たいてい、ほっぺを赤く塗ってつけぼくろをしていた)の時の「ウホォーッ」という太い声はまだ耳に残っている。「はなのお六」(「はなの六兵衛」の主人公を女性にしたてたもの)で主役もはれた人である。

寛美と千葉蝶とのかけあいは「親バカ子バカ(後編)」のDVD(藤山寛美十八番箱所蔵)で見られる。

ほんとうにどうでもいいこと

以前、「僕らは怪しいサラリーマン」の1コーナー「最終電車でじゃんけんぽん」で、負けた者は頭を丸刈りにされると書いたが、他の番組と混同しているかもしれない。この例のように私には、鳳啓助の云うところの「忘れたくても思い出せない」状況のものがいっぱいある。

きちんと覚えておく必要もないので、さっさと忘れてしまえばよいのだが、でも一度知ってしまったからには一生私につきまとうのだろう。ただし、それらをすっかり忘れて新たに人生をやり直したいというほどのものでもない。

錆のようにこびりついた記憶の一つが「とり菊」のコマーシャルソング。ムード歌謡の女性歌手が、「行きた〜いなとり菊、楽し〜いなとり菊」と歌ってた。ただし,歌は記憶しているが,映像の記憶は曖昧。ストップモーション技法で、店内に歌手を突然出現させたと思うのだが、背景の客の驚きの仕草がとってもわざとらしく、彼らの視線も歌手の方向から微妙にずれているようであった。なぜかインパクトがあって,大阪の深夜CMとしては有名だったと思う。笑福亭鶴光が落語のマクラでいじっていたし。

もう一つ忘れられないのは笑福亭仁鶴と板垣晶子担当の「ヒットでヒット、バチョンといこう!」水曜日への誰かさんの投稿。ことわざや格言の由来を考えようというコーナーがあり、ある日のお題は「地震・雷・火事・親父」。 誰かさんが考えた答えとは― 猫の親子がいました。近所の犬が苛めるので、子猫が犬が昼寝をしている間にチンチンを噛んでやると言ったら、母猫が答えた。「チンチン噛むより、かじっておやり」・・・「チチン噛むより、かじっておやじ」・・・「ジシン・カミナリ、・・・ばんざーい、ばんざーい」(それは、別の番組やがな)。ラジオで見えなかったが板垣晶子は笑い転げてたのではないか。

こういったどうでもよいものたちが、これからもひょんなはずみで記憶の底から甦ってくるのだろうな。たまらんな。

いままで見たことのない漫才

YouTube で凄いものを見てしまった。

YouTubeで懐かしい演芸が見られるのはうれしい。一時、松竹新喜劇「愚兄愚弟」の千葉蝶三朗扮する金魚屋の高橋が「てらて〜ら、てらてら」と唄うシーンがアップされたことがあったが削除されてしまった。あの名場面は国民的文化遺産であるから、削除するのならDVDで発売するなり動画を配信するなりしてほしい。私は必ず購入します。

ある年の大学の卒業式のとき、私が「お笑い」好きであることを知って選んだという記念品を卒業生からもらった。包装を解くと「ダウンタウン」のDVDであった。「なるほど」と思った。(「なるほど」の後に「この子たちの年代では、お笑いといえばダウンタウンなんだな」が続く)

私は1984年に関西を離れたので、その後の大阪のお笑い界のことはわからない。ダウンタウンが勃興する様子もこの目では見ていない。風の噂は伝わってきたが。私の知っている彼らの漫才は「あ」の評論家と「さて、どうでしょう」というテレビのクイズ番組のパロディのみだ。—(松本)「この問題に正解すると2倍になります」(浜田)「何が2倍になんねん?」(松本)「・・・私が2倍になります。」(浜田)「・・・絶対に当てたろ」—すごい発想。いずれにせよ手元にある 「上方演芸大全」(ワッハ上方編、創元社刊)の巻末の受賞一覧を見ても1985年以降(全国ネットのNHK「爆笑オンエアバトル」が開始されるまで)の若手受賞者はほとんど知らない。

ところで、YouTubeで見た凄いものとは、「メンバメイコボルスミ11」。ダウンタウンと同じく心斎橋二丁目劇場で活躍していたという女性漫才コンビで、上記の事情で私はこれまで知らなかった。 間を無視した抑揚のない語り、相方にではなく虚空に向かって放たれるような台詞、そして感情をあらわさない顔—こう書くとまるで素人の漫才のようだが、でも違う—ねずみの穴に入る仕草を横に半歩だけ身をずらした「あー」の一言で表現してしまう凄さ。一つの完成形だ。彼女らの漫才にはザッキンやブランクーシの彫刻のようなメタリック感があった。

花王名人劇場の横山やすしの「漫才教室」に出演して、やすしから「客より一歩先に出ている」と評された女性漫才コンビがいた。横山やすしの弁だと、「客より半歩前」を行かねばならないらしい。あのコンビがメンバメイコボルスミ11だったのかもしれない。今となっては確かめようがないし、もしそうだとタイトルは間違いだけれど。(もし違ったとしたら「客より一歩先んじている」と評されたあの漫才コンビは誰だったのだろう。そもそも女性コンビだったかどうかの記憶も怪しい。)

追記:同時期に活躍した若手女性コンビでは、私はテレビで一度しか見ることはなかったが「高僧野々村」がおもしろかった。こちらは素直に「あはは、あはは」と笑える漫才だった。上の「メタリック」という形容は森田芳光監督の映画「の・ようなもの」に出てくる一人の若手落語家に対して用いられた言葉を借用した。

判官贔屓

文字からの情報だけに頼ると恥をかきかねない。私は大阪府知事(この文章を書いた当時)はずっと「はしした」と読んでいた。そんなことだからあまり偉そうなことはいえないが、「判官贔屓」は是非とも「ほうがんびいき」と読んでほしい。落語家が「青菜」のなかで、「その名もくろうはんがんよしつね」、なんて言うとほんと興ざめてしまう。

どうやら私の性分の中に判官贔屓の質が色濃く存在しているようだ。その証拠の一つに関西にいた頃は毎日放送を応援していたことがある。というのはMBS毎日放送が他の局、とくにABC朝日放送と比べたら何となくショボク感じたからである。

私の小学高学年から中学生にかけての時代、笑福亭仁鶴が絶大な人気を誇っていた。私もご多分に漏れずに「なにがなんでも仁鶴」の子どもの一人であった。ところがABCには「ヤングリクエスト」に、ラジオ大阪OBCには「ヒットでヒット、バチョンと行こう」水曜日に仁鶴の担当があったのに、MBSラジオからは仁鶴の声が聴かれなかった。ギャラが高いからかなあ、と子供心に心配したものである。その心配が昂じてMBSラジオをよく聴いた。オールナイトニッポンより「チャチャヤング」。DJは「探検家」の馬場章夫、名前は忘れたけれど立命館大学教授、SF作家の眉村卓、谷村新司が金曜日深夜(したがって土曜日)でパンダの歌をオープニングに使っていた。中島みゆきの放送を一度も聴かなかったのが私の自慢である。

MBSの深夜テレビ番組のチープさがたまらない魅力であった。たとえば「夜はくねくね」や「僕らは怪しいサラリーマン」。後者の「最終電車でジャンケンポン」のコーナーでは、終電の時刻にサラリーマンをつかまえてジャンケンをする。サラリーマンは勝てば美女のエスコートつきで自宅までリムジンで送ってもらえるが、負ければ終電を逃したうえにバリカンで丸坊主にされてしまう。番組名は忘れたけれど、宴会場に勝手に乗り込んでは「今夜こうして飲めるのは兵隊さんのおかげです」の替え歌を歌っていた旅(?)番組、わけが分からん。

番組進行を局アナを務めることが多かったのでMBSのアナウンサーはわりと記憶にある。「アップダウンクイズ」の小池清、佐々木美絵、「千客万来」の水谷勝海、「ヤングOh!Oh!」の斉藤努、「ヤングタウン」の角淳一、「MBSナウ」の平松邦夫((この文章を書いた当時の)大阪市長)らは関西の人なら知っているだろう。最後にはやけくそで全員出演の「アドリブランド」という番組まで作った。

(私はアップダウンクイズを見ていて、シルエットクイズの問題が始まる前にゲストを当てたことがある。種明かしをすると、大物タレントが大阪に来るとあちこちの局を掛け持ちするので、いきおい新聞の番組表のローカル番組の時間帯にその人の名が頻出することになり、誰が大阪に来ていたのかの察しがつくのである。そのときは子ども大会だったのでさらに候補が絞り込めたのであった。)

確固とした将来の展望もなく、かといって夢を捨てることができないという不安定な(そのせいか、よく金縛りにあった)大学院生の頃、いきあたりばったりにつくられたようなMBSの深夜番組が妙に性に合った。精神的にもずいぶん助けられたような気がする。

追記:「ヒットでヒット、バチョンと行こう」火曜日担当の敏江・玲児の正司玲児さんが2010年12月10日に亡くなられた。出だしの頃の敏江・玲児の漫才の衝撃は忘れられない。「バチョンと行こう」のパーソナリティでは桂春蝶、桂枝雀(小米)、吾妻ひな子、横井くにえ、そして正司玲児が物故者になった。昔日の思いがある。

吉朝さんのこと

随分昔になるが、友人との会話で次世代の上方落語を担うのは誰かと議論したことがある。彼は雀々と答え、私は吉朝と答えた。大学院生の頃の短い期間であったが桂吉朝の追っかけをした。京都の芸術文化会館や大阪の太融寺の吉朝・雀松二人会などによく通った。枝雀は上方落語の系譜における一つの特異点であるのに対し、彼は米朝の落語の形を崩さずに継承している。しかし、ときどきすごい破壊力をもって笑いを誘発させる。

昔太融寺の落語会で吉朝の「お血脈」という落語を聴いた。信濃の善光寺の「血脈の御印」という一種の免罪符のせいで地獄に亡者が来なくなり、少「亡者」化対策のために閻魔たちが合議して、石川五右衛門を派遣して「血脈の御印」を盗ませようと画策する話で、上方落語では「善光寺骨寄せ」という題であるはずだが東京落語の「お血脈」の題でやっていたと思う。マクラでいろんな宗教・宗旨の話をした最後に「他にも宗教にはいろいろあって、金目教とかね・・・ご存知ですか」とボソッと言った。客の反応はなかった。しばらく経ってから「金目教」が何かに気づき、それがおかしくてたまらなかったがもう噺は前へ進んでいたので体を捩るようにして笑いを押し殺した。吉朝は「時うどん」も東京の演出でやっていた。

 松江に移動して新聞が大阪本社発行になったおかげで関西の情報が入るようになったが、2004年10月31日付け紙面に桂吉朝体調不良のため休養との記事があった。いち早い快復を祈る。

追記:吉朝さんは2005年11月8日に逝去された。

そして、枝雀のこと

桂枝雀は私にとって「お笑い三聖人」の一人である。師匠の米朝に失礼かもしれないが(それに米朝は私にとって落語界のカラヤンであり、米朝の落語を基準として考える癖があるから、以下の言い方が成り立つのかどうかも問題だが)彼の功績を考慮しても希代の落語家として芸能史に名が残るのは(初代桂春団治と)枝雀だと思う。枝雀の立場はそれほど特異であり、人が落語を語っているのではなく、まるで落語が人間の形をとっているような存在であった。枝雀の独演会に行くと、共演の彼や米朝の弟子たちもよく訓練されていて笑えるのだけれど、枝雀の場合は笑い声の出所が違った。腹の底から笑い声が出る、というより五臓六腑から皮膚細胞一つ一つに至る体全身が笑う感じがした。

 枝雀の落語は「枝雀落語」としか言いようのないぐらい一つ一つの噺を徹底的に再構成し究極の形につき詰めたものであった。だから枝雀のネタには軽重がない。静岡に居た頃、枝雀の落語会があるというので清水市民文化会館に聴きに行った。演題は「時うどん」。こちらの人は落語に馴染みが薄いからといって「時うどん」というのはあまりにも人を馬鹿にした軽いネタではいないか、と思った。しかしそれは今まで聴いたことのないとてつもない「時うどん」であった。話の中にいっぱい伏線を張ってあってそれらが後で次々を爆笑を引き起こした。主人公の男が汁を啜るたびに「からーっ」と言うのを執拗に繰り返すので、この男が昨夜一文ごまかした友人がやったことを忠実に真似をしなければいけないことを学習済みの観客は、男が麺を食べ終わってふっと鉢をのぞき込む瞬間にどっと笑うことになる(この後、男は辛いおつゆを飲み干さなければならない)。「時うどん」のようなネタでも枝雀の手にかかると爆笑落語に変じる。枝雀の落語が「枝雀落語」としか呼びようがないということは、米朝・春団治の「代書屋」と松本留五郎氏が活躍する枝雀の「代書」を聴き比べてもらうとわかってもらえると思う。ついでに書くと私は「米揚げ笊」の従来のサゲより、トントントンと上がり調子に来て勢いのいいままに終わる枝雀のサゲの方が好きである。
 また枝雀は独自の造語・表現を生み出す名人であった。「宿替え」における「神経がわからん」といった表現や「地獄八景」の「コツコツ言いなはんな」、「土地の者は見てはいけません」、「愛宕山」の「ネソネソ歩いてられまへん」。彼のいろんな落語を横断して出てくるギャグがあって枝雀の落語をよく知る観客との親密度を高めるのに役立っていた。「うちのオカンも言うとったなァ、おまえももうちょっと落ち着きさえすりゃフツウの人間や」。

 84年に静岡に移ったとき、枝雀の落語に接する機会が少なくなるのが悲しいことであったが、ありがたいことに沼津に落語を愛好する人たちがいて毎年一回、年末または年始に枝雀独演会を開催してくれたので、この落語会に出かけることが私の年中行事の一つとなり、静岡市からわざわざチケットを予約するような人は他にいなかったのか、そのうちプレイガイドの人が私のことを憶えてくれるようになった。独演会からの帰りの電車の中で一年ぶりの枝雀の落語を堪能して幸せな気分に浸っていた。

 枝雀のオーバーアクションをとやかく言う人がいるが、あんなものは彼の落語の特徴でもなんでない。照れ屋であるゆえ、派手な動きで彼の落語の計算し尽くされた緻密さをカモフラージュしたかったのだと思う。だからそうした操作ができないとき、たとえばNHKの「お好み演芸会」の薬にも毒にもならない大喜利では東京の落語家に交じって借りてきた猫のようにしていた。朝日放送の「笑ってゴーゴー」で一方のチームのキャプテンだったときは、なぜかパーティグッズの眼鏡と付け鼻で顔を隠していた。
 テレビ番組で「上方芸能」元編集長の木津川計にインタビューを受けたとき、オーバーアクションについての批判めいたことを問われた。枝雀は身体のどこかが座布団に触れていることを制約としていると答えて、木津川氏もそれに納得していたようだが、私はそれは嘘だろう、枝雀はそんな縛りにとらわれるはずがないと思った。

 オーバーアクションを取り上げるのなら、その前に彼の声の「かわいらしさ」を特徴にあげてほしい。例えば「雨乞い源兵衛」などのマクラに使う「進化論」の中の「タッタ、タッター、立ったー」の無邪気で弾むような声。私が聴いた落語家の中で声がかわいらしいと感じたのは枝雀ともう一人、古今亭志ん生だけである。

 わからないのは、枝雀が「地獄八景亡者戯」の閻魔の出御でどうしてへらへら笑う閻魔を演出したのかということである。この演目のハイライトであり、四人の亡者が活躍する後半の話への場面転換のめりはりとして観客を緊張させなければいけない場面である。私は枝雀の恐い顔の閻魔が見たかったし、もし恐い顔ができなかったのならば、そこに枝雀落語の限界があったのだろう。

 しかし限界があると思ったからこそ私は枝雀の落語をただただ愉快に聴けたのだと思う。そうでなければ、あの独特な世界にはまりこんだまま枝雀落語中毒から抜け出せなくなる危険性があった。

私の落語体験

ここに掲載している私の拙い文章を読んで、たまにメイルや葉書を送ってくれる人がいる。まことに有り難いことではあるが、あくまでも自己満足のために書いている文章なので、貴重なお時間を潰させてしまったことを申し訳なく思います。

私は小さい頃からテレビでよく演芸番組を見ていた。土曜日・日曜日のお昼は私にとってゴールデンアワーで吉本新喜劇と道頓堀アワー、松竹新喜劇は必ず見ていた。ちなみに吉本新喜劇は土曜日の朝日放送のと日曜の毎日放送の中継があり、朝日放送のはおなじみの「プンワカ、プンワカ、プンワカ〜」のテーマ音楽で始まり、毎日放送のは大正製薬提供の「サモン・ゴールド劇場」と題して、テーマ音楽も上品なジャズで(「吉本ギャグ100連発」のビデオで聴ける)MCの島田洋介・今喜多代の漫才の後で幕が開いた。その頃の吉本新喜劇ではしっかりとした1つのストーリーが進行していたように思う。花紀京、岡八郎、原哲男の他に秋山たか志という人のマドロス姿が微かに記憶に残っている。(後に革命といえるぐらい吉本新喜劇の姿を変えたのが間寛平と木村進である。)

テレビで桂米朝、笑福亭松鶴、桂春団治らの落語を見聴きしていたので、落語がどういうものかは知っていたし,笑い話を集めた子供向きの本を持っていて、ある日、通っていた堺市にあった今は亡き(どこかへ移転したのだろうか)幼稚園で、その本で憶えた「寿限無」を落語家の見よう見まねで皆の前でしゃべったら、それが大いに受けて先生も含めて大爆笑を起こしたこともあった。人前でしゃべってこんなに受けたのは後にも先にもない。しかし,当時は落語以上にゴジラやガメラやギララやガッパなどの怪獣映画の方に執心であった。

大阪にも大喜利番組があって米朝が司会で、解答者は、桂文我、桂小米、吾妻ひな子—他に誰かいたかな?(ちなみに文紅は私の母校大阪府立四條畷高校の大先輩である。)こちらは良い答えには座布団も何もくれないのだが、悪い答えだと顔に靴墨を塗られる。最初は筆で一捌け塗られる程度だが、最後は手で墨をなすりつけられるようになり大抵は小米の顔が真っ黒になって終わった。後から思うと小米は米朝の弟子なので、墨をつけやすかったのだろう。お題を提供した観客にサイン入り色紙を「台所の油虫除けのお呪い」といってプレゼントしていた。(追記:桂小春団治(後の露五郎兵衛)もメンバーであったことがわかった。Wikipediaには桂文紅は寝屋川高校出身とある。私の記憶違いだろうか。-- (2014年7月19日の注):四條畷中学四十三回卒であることがわかった。)

私はこの大喜利を「道頓堀アワー」の一つのコーナーと思っていたが、違っていた。また「お笑いとんち袋」というタイトルであった。記憶とは不確かなものである。いつからか大阪万博に出品された「人間洗濯機」は松下館にあったとばかり思っていたが、最近になって、三洋館にあったことを知った。

小学校高学年から中学にかけての、とにかく笑福亭仁鶴が出ている番組であれば何でも見るぐらいに仁鶴、仁鶴で日が明け暮れていたそんなある時、仁鶴のレコードを見つけて買った。「牛褒め」と「崇徳院」が収録されていたのだが、不思議なことにそれを聴くまで仁鶴が落語家であることをまったく認識していなかった。私の中で、今でいうなら明石家さんまのような存在だったのだろう。その仁鶴が古典落語をやることにまず驚いたし、また初めて聴く「崇徳院」に、落語には若者の恋を扱うような噺もあるんだと、私の中で落語の世界が一挙に広がった。それまでは道頓堀アワーで聴いた「角力場風景」、「祝いのし」などの限られた噺で私の落語の世界は尽きていたが、仁鶴さんのおかげで落語というものを再認識することができた。高校時代は受験勉強のせいで特に演芸についての思い出はない。ただ一つ、入試か模試かなんかの前日に花王名人劇場で中田ダイマルの追悼番組をやっているのを家族がケラケラ笑って見ているのに私は我慢して見なかったことが悔しい思い出として残っている。

大学生時代後半からに定期的に桂米朝の正月の独演会を聴きに行ったり、春蝶や枝雀(前出の小米のこと)が「地獄八景」をやるからと聴きに行ったりした。(春蝶の「地獄八景」は、三途の川の渡しで船頭の鬼が船賃を徴収するとき、交通事故で死んだ者は乗っていた自動車の車種で料金を設定していた。)松鶴の紫綬褒章受賞記念の落語会にも出かけたが、会場の入り口で鏡割りの酒をふるまっていて、私は恐れ多くも松鶴師匠の手から枡をいただくことができた。私が落語家に第三種接近遭遇できたのはこのときと、後に静岡で米朝独演会を聴きに行った時に米朝グッズの販売を手伝っていた桂雀司(現・文我)さんにサインをもらったときと、名古屋大学理学部の広報委員会が卒業生の三遊亭圓王さんを招いて落語会を開催したときの3度だけである。(まだ圓王さんが新窓と名乗っていた20年ぐらい前に京都・誓願寺の安楽庵策伝忌の落語会で彼の噺を聴いたことがあるので懐かしかった。)

卒業ゼミ旅行

随分前のことになるが、大学院生たちと卒業ゼミ旅行に出かけた。行き先は大阪。最初の目的地は「なんばグランド花月」。私は会議があったので学生たちを先に行かせて、後から追っかけた。グランド花月に着いたときは、B&Bの漫才の途中で、それが終わるともう吉本新喜劇であった(出演:桑原和男、川畑泰史、小薮千豊他)。桑原和男が台本をとつおいつ思い出しながらしゃべっているようで「ウー」とか「エー」が混じり、せりふをうまく回せていない。

新喜劇がはねてから「桂ざこば一門会」鑑賞のためトリイホールに移動する。演題は「米揚げ笊」(桂ちょうば)、「書き割り盗人」(桂出丸)、「肝つぶし」(桂ざこば)、「ギター演奏」(桂ちょうば)、「いらち俥」(桂わかば)、「都んぼのウィークエンダー」(桂都んぼ)、「一人酒盛」(桂都丸)それと一門総出で大喜利。「都んぼのウィークエンダー」は日本昔話を「ウィークエンダー」風にアレンジして紙芝居で見せるという趣向。「ウィークエンダー」というのは、三面記事の事件を再現フィルムを交えて紹介するレポーターの桂ざこば(当時朝丸)や泉ピン子(それと後に日活ロマンポルノに出て話題になった人がいたな。名前は何だたっけ?)が売れ出すきっかけとなったかつてのテレビ番組である。「タッ、タラッタ、タッタァー」というトランペットの音が鳴ると観客席から「ああ懐かしい」という感じの声があちこちから漏れた。

ーその頃の朝丸というと、中学生の頃かなあ、阪急8番街でのイベントで「動物イジメ」を聴いたことがある。「キリンにつきたての餅を食わせますな。餅が喉を通る間、アツイアツイとキリン悶え苦しみますな。」—あの頃はけっこうミーハーでキャッシー(キャサリン・モリス)という人見たさにMBSラジオの公開録音を見に行ったこともあった。横山プリンを見て声だけでは決してその人物の姿は想像できないものだということがよくわかった。そのときのゲストが朱里エイ子で「北国行きで」を口パク(多分)で歌っていた。(合掌)ー

都んぼが、「ウィークエンダー」で全国的に知名度を上げた頃の朝丸が30代初めで、自分はもうその年齢を超えているのに、会場の人でさえ私を知らない人がほとんどだと言っていたが、当時は落語家そのものが少なかったから、活躍のチャンスも多かったんだろね。四天王は別として、売れていたのは仁鶴、三枝、可朝、鶴光、小米(のちの枝雀)、春蝶、朝丸ぐらいだったから。

司会の小米朝と負けず劣らず端正な顔立ちの出丸は初めてだが、面白く聴けた。私は大満足だったが、後で学生に尋ねると噺の内容が良くわからなかったらしい。今では使われていない品物の名前などがあると、それが何かわからないのでイメージが浮かび上がらないのかも知れない。その点は出丸も心得ていて、まくらで「米揚げ笊(いかき)」に出てくる「大豆、中豆、小豆(こまめ)」というのは、実は豆の種類ではなく笊の目の大きさ、「おおまめ」は「大きな目」、「こまめ」は「小さな目」を意味している。でもそんな細かい知識がなくても、「大豆、中豆、・・・」だと誤解していたとしても噺は楽しめるでしょ、というようなことを言っていたのだが。

ざこばの噺で好きなのは「堀川」や「天災」だが、今回は「肝つぶし」である。ちょっと凄惨な話である。ざこばは、話の途中で泣き出してしまい、後の展開のあらすじを言って終わってしまった。

落語のトリは桂都丸。今回初めて松鶴以外の「一人酒盛」を聴いた。もとは東京のネタであったらしいが、桂南天から米朝、米朝から枝雀へと継承された(桂米朝落語全集第2巻)。「柴漬け食いや」や「なんにもしてもらわいでもええねん」の執拗な繰り返しといった枝雀の特徴がみられたことから都丸は枝雀から受け継いだのだろう。最近知ったことだが酒の噺は難しいらしい。鶴瓶との対談で、春団治や文枝でさえ酒のネタはできないと語っている(六世笑福亭松鶴はなし)。その難しい酒の噺を都丸は見事に薬籠中のものにしている。名人芸を見せてもらったという気分になった。

落語会が終わって、学生たちへの名所案内のつもりで法善寺・水掛け不動やくいだおれ人形、戎橋のグリコのネオン広告に立ち寄り、それからたこ焼き屋の2階に陣取って、うまいたこ焼きをつまみながらビールを飲み、「やっぱり大阪はええなあ」を連発し、そして宿に戻った。

最後の一門総出に出演していた桂喜丸さんが、しばらくして亡くなられた。さあこれからというときだっただけに残念である(合掌)。

追記:2010年8月に都丸さんは四代目桂塩鯛を襲名された。島根県民会館での襲名披露公演に行ってきました。同時期に都んぼさんは四代目桂米紫を襲名された。

漫才の終わり方

漫才の締めくくりで印象に残っているは、なんといっても平和ラッパ・日佐丸。「こんなアホつれて漫才やってまんねん」、「ほんまに気ィつかいまっせ」、「それはこっちの云うせりふやがな」、「ははぁ、サイナラー」(このサイナラの「サ」は 「シャ」 のように発音する)音楽ショウの「これでお終い、かしまし娘・・・」や「それじゃここらで、それじゃここらで・・・」のようにエンディングが決まっているものにせよ、宮川左近ショウや暁伸・ミスハワイのようにネタのまま終わるものにせよ、ぐっと盛り上がったところで最後にかき鳴らすギターの音が好きだ。Wヤングの最後はダジャレ合戦で、たとえば都道府県名のシャレなら、「もうこのへんでオキナワ県」で終わる。若手ではルート33も最後は落語のサゲに近い終わり方だ。終わり方に趣向を凝らしたり変なポーズを取ったりする若手漫才もあるが、サラッと終わったほうが逆に余韻が残るのではないだろうか。

先日、DVD で「水の女」という映画を見ていたら宮川左近ショウの松島一夫が銭湯で浪曲を唸っているシーンがあった。懐かしかったなあ。映画にはラジオ深夜便の「芸能博物館」やミュージック・ソーの演奏で知られる都家歌六も出演していた。

 ところでホワイトデイは、昔、ラジオ大阪の深夜番組「ヒットでヒット、バチョンといこう」の浜村淳担当日(土曜日か日曜日)に、ある女の子から「バレンタインデイのチョコレートお返しに、3月15日にマシュマロを送ろう」という投書があったのがきっかけで始まったのだと思う。

夢路いとし死去(2003年10月4日 土曜日)

世の中には、この人にはいつまでも生きていてほしいと願う、いやいつまでも生きているのだと自分勝手に信じている人たちがいる。私にとっては夢路いとし・喜味こいしと桂米朝がそうである。(この日記では敬称を略しているが、私には「いと・こい」師であり、桂米朝師である。)つらいことだけど、一人については、いつまでも生きていてほしかった、と過去形で記さないといけない。
9月25日(木)夢路いとし死去。

いつまでも生きていてほしい、というのは親しい人に対して抱く感情である。それほど、いとし・こいしの存在は身近かであった。関西の人なら、人生のどの段階を輪切りにしても、遠景にせよ近景にせよそこにいとし・こいしが見つかるに違いない。

いとし・こいしの漫才は日常の情景を戯画化したものが多い。たとえば、いとしの家では妻のかけ声で食事の内容が分かるという話。「あなた、めし〜」では、ご飯とみそ汁に香のものだけ。それにおかずが一品つくと「あなたごはんよ〜」になる。すき焼きをやろうものなら「あなた、晩餐会よ〜」(そんなおおげさな。)その翌朝は「あなた、フルコースよ〜」と。「朝から洋食食べんのか?」、「いや、昨日のおかずの残りもんやから、古コース」。
--いとしの家で家族旅行の計画を相談した。妻はアメリカに、娘はリオ・デ・ジャネイロに、自分はマカオに行きたいといって、意見がまとまらない。結局アメリカのアと、リオのリとマカオのマをとって有馬温泉にでかけることにした。

演目として生き残っていく落語のネタとちがって一過性のものが多い漫才のネタのなかにも、繰り返しの傾聴に耐えうる名作がある。いと・こいの漫才に名作は多いが、やはり落語と違って彼らがが演じないとそれらが活きないだろうことが残念である。それでも巡査が不審者に職務質問をする「交通巡査」--「名前は?」、「いま、ゆうぞ」、「早いこと言わんか」、「いま、ゆうぞー」、(いらいらして)「すっと名前を言えんか」、「そやから、さっきから、いまい・ゆうぞう、というてますがな」--は落語の「寿限無」や「東の旅」のように、漫才入門のお手本となるだろう。(国語の教科書に採用してくれないかな。)

2年前、浪花座のお盆興行でいとし・こいしの漫才を聴いた。舞台の袖に姿を現してからセンターマイクに進むまでかなりの時間を要したが、その間、観客は暖かい拍手を送りつづけていた。漫才に入ると声量も大きく言葉もハッキリしていて、「漫才の基本」はこうあるべきというのを見せられたような気がした。それに掛け値なしにその日の演目の中で一番面白かった。

新宿のルミネへ行った(2003年3月26日 水曜日)

今年度の春の学会は東京で開催されたので、「お笑い分科会」の数学者仲間(全員関西出身)と新宿駅南口のルミネtheよしもとの7じ-9じの公演を見にいく。劇場は450席あるが、横に細長くて前列の脇からは演者は見づらい。若い女性が多かったが、中年男性もちらほらいたのでとりあえずホッとした。出演者は登場順に COWCOW、じゃぴょん、陣内智則、ニブンノゴ、水玉れっぷう隊、千原兄弟、それとよしもと新喜劇(板野創路、ホンコン(蔵野孝洋)、島田珠代、2丁拳銃ほか)であった。
前半では陣内智則と千原兄弟が秀逸であった。卒業式間近に転校してきてすぐに卒業式に臨む中学生を演じた陣内智則はMD との掛け合いで一人でやっているが、あれは絶対に漫才に分類されるべきだ。千原兄弟は、いじめられっ子を息子に持つ母親の記者会見というコント。シュール系である。「ゼリーをとおして見える息子の悲しげな顔」なんていう発想はどこから生まれるのだろう。じゃぴょん(旧ウルグアイパラグアイ)はタレント養成学校のオーディションを受けにきた女性を演じた人(桑折)のレオタード姿での登場でインパクトを与えるつもりだったのだろうが、カツラが落として観客の集中を頓挫させたのが失敗だったと思う。水玉れっぷう隊は東京では「あいつら誰?」という感じ。まだまだ精進せなあかんね。

よしもと新喜劇はホンコンがいい味を出していたが、辻本茂雄や内場勝則、烏川耕一、安尾信之助らがマルチで息もつがせず畳みかけるようにつっこみぼけたおす吉本新喜劇を知っているだけにすごく物足りなかった。それに間延びしてだらだらしていた。甘栗や蓄膿ネタであんなにひっぱる必要があるのか。45分ぐらいで十分だと思った。

音楽漫才

現在の音楽漫才の第一人者はなんといっても「横山ホットブラザーズ」である。今の「横山ホットブラザーズ」イコール「おまえはアホか」のノコギリ芸、という認知のされかたは非常に残念である。他にもいろんな趣向を凝らしたネタがあって台所用品などの日用品で作った楽器の演奏や、昔は吉永小百合の顔写真を貼った段ボール人形とタンゴを踊りながら、下着を脱がしていくというのもあった。
 音楽漫才、音曲漫才、歌謡漫才がだんだん少なくなるのは淋しい。70年代初めの角座、「かしまし娘」が舞台に登場して最初のフレーズを奏でただけパッと華やいだ空気になった。楽器を用いた漫才といえば「宮川左近ショー」(なんでこんなにうまいんやろ)、「暁伸・ミスハワイ」(ねぐらへ急ぐダンプカー)、「タイヘイトリオ」、「フラワーショー」、「三人奴」、「東洋朝日丸・日出丸」、「あひる艦隊」、新しいところでは「ジョウサンズ」、「ちゃっきり娘」、Mr. オクレがいた「ザ・パンチャーズ」などなど。音楽漫才にはテーマ曲がつきもので、今ではとても懐かしい。私自身、ルーチンな計算をしているときなどに「なにがぁーなぁーんでもーこのコンビぃー」とか「夢路さん、ハイよー」と口ずさんでいるときがある。それらを集めたCDが発売されることを切に願う。もちろん横山ホットブラザーズのは新旧両バージョンとも収録してほしい。

最後に懐かしいTVコマーシャルを一つ。「あんたほんとにウィッグやね」、「なんでウィッグやねん」、「ムシの好かん人」、「衣類の虫よけにウィッグ、ウィッグ防虫錠」

新宿末広亭(2002年3月27日 水曜日)

新宿末広亭に足を運ぶのはこれが2度目である。2年前の春、学習院大学での学会のおりである。ある委員に任命されたばかりに一日の講演が終わっても他の人と食事や飲みに行くことができず、会議の後ぶらっと立ち寄ったのが最初。そのとき東京の寄席は笑いに行く場所ではなく話を聴きに行く場所だと知った。それでも「東京ボーイズ」と「ボンボンブラザーズ」には死ぬほど笑った。私のななめ前に座って抱腹絶倒を絵に描いたように体を捩りながら笑っていた若者がいたのも印象に残っている。
 今春も末広亭に足を運んだのもひとえに東京ボーイズ見たさである。最初見たときはひたすら笑いっぱなしだったので、二回目で間の取り方のうまさと無理のない展開に気づいた。とにかく登場して3人が舞台に並んだだけで可笑しい(ただ3月27日の舞台は2人で立っていた)。向かって右からウクレレを持って意気軒昂としている仲八郎、貫録がありそうでなさそうなアコーディオンをかかえた旭五郎、ついでにいるよという感じでへナっと立ってる三味線の菅六郎へのグラデーションがなんともいえない。なにか赤塚不二雄のマンガっぽい。三人の芸はまずテーマソング「天気が良ければ晴れだろう・・・」を唄った後、音楽家然とした気品のある顔立ちの仲八郎が「これから演奏します曲は」といって、クラシックの名曲であったり、若者向けの最新の曲であったりする曲目をずらっと並べ終わった後、旭五郎がそっと菅六郎に「こんなの弾けるかい?」とつぶやきかけることで始まる。それからいくつかネタが続き(この部分が気になる人は是非、実物を見てください)、なぞかけ問答がトリネタである。「東京ボーイズという文字をなぞかけ問答でときまする。種を蒔かない畑です。いつまでたっても芽が出ない」からテーマソングに続けて終了する。が、もうりっぱな大輪の花であるので最後の部分をもっとポジティブなものに変えたほうがよいと思います。

 それにしてもこの夜の末広亭は代演が多いのに辟易した。夜の部の演者のうち4名が交代した。これでは東京以外の地方からたまにしか訪れることしかできない客に対して失礼であろう。お目当ての春風亭柳昇も休演で、代演者が登場したとき客席からはさすがに「あれっ」という声が漏れた。いまや日本でただ一人しかいない柳昇を見ておきたかった。寄席からの帰りに立ち寄った書店で偶然に一冊の本を見つけた。題名は「落語家柳昇の寄席は毎日休みなし」

浪速座閉鎖のニュース(2001年12月27日 木曜日)

しばらくこの日記を更新しなかった。8月に浪花座のお盆興行に行ったので、そのことを書こうと思ったまま放っておいたら、突然「浪花座」閉館というショッキングなニュースが飛び込んできた。松竹芸能のホームページには「演芸の灯はともし続ける」べく道頓堀での興行を続けるとしてるが、現時点で浪花座に替わる演芸場についての言及がない。角座閉鎖時のように芸人さんに舞台を供給できない事態がしばらく続くのではないかと心配である。これを機会に何人かの芸人さんが舞台から消えることを危惧する。

期待を壊す「引き技」について

落語家や漫才師が語りはじめてから最初の笑いが起きるまでの少しはりつめた空気の時間が好きだ。この後の展開に期待を抱く聴衆と受けるののかどうか不安を覚えつつせっせと話を作り上げていく芸人と間の緊張がつづく時間帯—普通の芸人ならばほんの数十秒で終了する時間がとても大切に思える。だから昔の桂三枝のように「いらっしゃーい」といきなり緊張関係を壊すようなのはとても困る。品川庄司の「しながわです」もとても困る。あれがなくても十分面白いのに。

ほかに困るのはイタイタしい芸人。思わずガンバレと応援を送りたくなるようなのは、つらくって気楽に見てられない。一昔前なら春やすこ・けいこや桂春輔という人たちがイタイタしかった。でも今いちばんイタイタしいのは私自身だ(まぁ私は芸人ではないけれど。)

だるま食堂(2001年9月11日 火曜日)

歩いても歩いても東大駒場キャンパスから抜け出せない。さすがに東大は懐が深い。ようやくキャンパスから抜け出し住宅街を右往左往するうちに下北沢に着いた。 情報誌で見つけた「だるま食堂の日常音楽コント・暮らしのト長帖」(「劇」小劇場、7時半開演)を見るためだが、一人だったし、おまけに見知らぬ町にいるので劇場の受付でチケットを買うだけでもドキドキしてしまった。 開演まで時間があったので駅前の通りをぶらぶらする。どこまでいっても商店が続くので驚いた。下北沢は懐が深い。(暗くてよくわからなかったので同じところをぐるぐる回っていたのかもしれない)
「だるま食堂」の予備知識はまったくなかった。100人ぐらい収容の小さな会場だし、隣の人が出演者にメッセージを書いていたので、ひょっとしたら回りの人は「だるま食堂」の親戚や知り合いばかりではないかと不安になった。会場は満席だった。係の人が「お客様の中で劇場を間違えて入場している方がいませんか。」と本多劇場のチケットの半券をちらつかしながら呼びかけたので開演前というのにひとしきり盛り上がった。

「だるま食堂」という名で登場したのは推定年齢30ー50歳(警察発表のようだな)のごく普通の(舞台向かって左の人は少々エキセントリックだが)小学校の父兄参観に行くと必ず見かけるような女性3人組だった。それこそママさんコント・クラブ'ではないかと思えるぐらい素人の集団に見え、ますます「大部分の観客=親戚・知人」疑惑が私の中で深まった。しかし2つめのコントまででそうした疑惑は消え、涙が出るぐらい笑ってしまった。隣の人も腹を抱えて笑っていた。

内容は音階の数に合わせたのか「ママさん音符クラブ」、「音楽のないレストラン」、「明るい教師になろう」、「きゅうくつな服」、「万引き」、「糸問屋おかみのお披露目」、「父母劇の主役は誰」の7つのコント(タイトルは私がかってにつけたもの:例によってネタは明かさない)と「ラクラクお暮しシスターズ」のコーラス。

面白かった。外観にまがうことなく「安心のある笑い」を提供していた。試着室で砲丸投げをするという無理な設定や「万引き」で店長と警備員の警察につきだすのつきださないのとのやりとりに合わせて犯人がイスを持ち上げたり下げたりなどする理由がわからない(犯人は刑務所に入りたいのだから、店長が「警察を呼ばない」と言えば店長に殴りかかろうとイスを振り上げ、警備員が「警察を呼びましょう」と言えば下げるというのならわかるのだがそのようには見えなかった)といった気になる部分もあったが、全般的に老若男女がそろって楽しめる笑いのコントに仕上がっていた。痛々しさを感じさせずにボケたり貧相な雰囲気を出せる左側の人は貴重な存在だ。多分、東京のコントによくある上京したての田舎者をこの人に演じさせると絶品だろうな。

 初めて訪れ地理もよく掴めていない土地で楽しい2時間を過ごすことができた。東京は懐が深いなと思った。

松竹新喜劇

私にとっての三大お笑い芸人は、藤山寛美、桂枝雀、中田ダイマル・ラケットであるが、ダイマル・ラケットの漫才はほとんど見ていない。私の世代の漫才といえばWヤング、それからなんといっても横山やすし・西川きよしである。しかし年配の人が「ダイ・ラケの漫才をもう一遍聴きたい」というのを耳にするにつけ、ないものねだりをする子供のようにダイ・ラケに憧れる。そして私は藤山寛美、桂枝雀と同時代を生きることができて本当に幸せだったと思う。
藤山寛美の芝居を一度だけ生で見たことがある。大学4回生のとき大学の友人たちと 藤井寺球場へ近鉄バッファローズ対西武ライオンズの試合を見に行く予定をしていたが、野球が雨天中止になったのでチケットの払戻金を一部の糧に道頓堀の中座で松竹新喜劇を見ようということになった。劇場に着いたときにはほぼ満席だったが、そんなことに関わりなく私たちの席はもちろん一番安い席だったので2階の奥の方であった。狂言は老漫才師夫婦の矜持と悲哀を描いた「鼓」であった。寛美だけがマイクでしゃべっていた。まだ亡くなるまで10年近くあったのだが当時から苦しかったのだろうか?今にしてはよく見ておいたものだと思う。

私は物まねの人がよくやる「あのぅモシモシ、おとうさんですかァ」の時代を知らないが、一番面白い時期の藤山寛美を見ることができたと思う。私が小学校の高学年の頃の松竹新喜劇は寛美以外に小島秀哉、小島慶四郎、八木五文楽、中川雅夫、曾我廼家文童、酒井光子、曾我廼家鶴蝶、大津十詩子、四条栄美、月城小夜子といった実力派で固められていた。伴心平という人は社長や親分の役が似合う強面だったが、寛美のいちびりにこらえきれず笑いだして台詞が言えなくなるシーンは今思い出してもおかしい。

私にとって松竹新喜劇が本当に面白かったのは千葉蝶三朗が舞台に立っていた頃である。「愚兄愚弟」の金魚屋の高橋役などの飄々としてとぼけた雰囲気は絶品であった。千葉蝶三郎が亡くなった後、代わり役といっていいのだろうか博多淡海(二代目)が入団したが、二人の確執が伝えられたりこのころからだんだんと寛美の独裁色が強くなり、押し付けるようなメッセージ性にすこし辟易することもしばしばあった。

ちょっと批判めいたことを書いたが、それでも藤山寛美は不世出の喜劇役者なのである。演目をその場の客にアンケートをとって決める「お好みリクエスト芝居」や芝居の後半の展開を3通り用意して、どれがよいかを客に選んでもらうという実験的試行に挑戦したことによっても日本の演劇史に名前を残す人である。

藤山寛美という役者がおり、「人生双六」、「愚兄愚弟」、「はなの六兵衛」、「銀のかんざし」、「大人の童話」、「裏町の友情」などの優れた狂言があり、松竹新喜劇は一つの奇跡のようであった。

「もう一つの上方演芸」(2001/3/17 土曜日)

大阪ゲラゲラ学会編「もう一つの上方演芸」(たちばな出版)を読む。序の「はじめに」が刺激的であるが、巨大な吉本興業の前では蟷螂の斧の感もなきにしもあらずか。
気になっていた吉本、松竹以外のプロダクション、とくにケーエープロのことがわかったのがうれしかった。「梅田トップホットシアターの芸人」=「大宝芸能所属」ではないこと、また毎日放送の番組を司会していた夢路いとし・喜味こいし(がっちり買いまショウ)、若井はんじけんじ(ジャンピングクイズ)、海原お浜小浜(千客万来)の誰もがその当時松竹芸能所属でなかったことがわかり昔の誤解を改めてくれた。

梅田コマの横にあった「コマモダン寄席・トップホットシアター」の前を何度か通ったことがある。馴染みの芸人さんの名前が掲げてあったが、なんとなく胡散臭そうな感じがして私には近づきがたかった。「コマ新喜劇」や「夜の大作戦」のイメージから「エロネタ」ばかりやっていそうに感じたからだろうか?でも日曜の「お笑いトップホット」はテレビでしっかり見ていた。トップホットシアターに出ていた芸人さんで記憶に残っているのは、漫才ではなんといっても夢路いとし・喜味こいし、それから海原千里・万里、若井小づえ・みどり。「ヒットでヒット、バチョンと行こう」でコメディNo1と一緒にDJをやっていた「ぺけやっこ(?)」の服部三千代、落語では桂朝丸、新喜劇は奥津由三が主役で、赤井タンク、阿吾十郎、中山三吉、西田トキコがいた。

吉本興業と松竹芸能は1970年代前半にはまだ拮抗していた。吉本では「桂三枝」、「横山やすし・西川きよし」、「コメディNo1(前田五郎・坂田利夫)」、「中田カウス・ボタン」、松竹では「レツゴー三匹」、「正司敏江・玲司」らが人気者であった。そのなかでも子どもの間では「笑福亭仁鶴」の人気が絶大で、私も仁鶴さんなしでは夜も日も明けぬという状況であった。この頃から吉本は毎日放送の「ヤングOH!OH!」などで若者層を引きつけることに成功して勢力を伸ばす一方、大いなるマンネリに陥った松竹は衰退し続けてついには神戸松竹座、角座を閉鎖し、一時芸人さんに舞台を供給できない事態にまでなってしまった。

松竹にも実力のある若手(当時)はいた。若井ぼん・はやと、浮世亭三吾・十吾、船仁のるか・喜和そるか、ちゃっきり娘、はな寛太・いま寛大、酒井くにお・とおる、横山たかし・ひろし。寄席芸人然としてタレントという言葉は似合わなかった。ところで「まかせなさい」というギャグは横山やすしのものだと思っている人が多いが、もともとは若井ぼん・はやとの若井ぼんのギャグである。

これからはインターネットや多チャンネル時代のテレビが多様な情報を発信し、人々をいろんなところへ向かわせる契機を与えるだろう。寄席にしても不定期のライブにして何も知らなければ箱の中に入りづらいものである。しかしなにがしかの情報があってなにか面白いことをやっている、そうでなくても極端にいえば、少なくとも身の安全が確保されることがわかっていれば入ってみようという気になるかもしれない。地上波のテレビに頼らなくても多くの情報を入手できる時代だからこそ私たちが楽しめる場所の選択肢として寄席にもがんばって存続してもらいたい。テレビにでているタレントはあくまでもサンプルであって、テレビには出ていないけれど面白い人、綺麗な人、歌のうまい人はいっぱいいるのである。その気になれば私たちはそうした人たちの芸を楽しむための手段をいくらでも見つけることができるのだ。世間の人は知らないけれど自分にとってお気に入りの芸人さんがいるというのも素敵ではないか。

「もう一つの上方演芸」を読んで昔のことを思いだしてみた。静岡の大道芸ワールドカップに出演していた好田タクトさんが漫才や吉本新喜劇などで上方演芸に浸かっていた人とは知らなかった。

松竹の若手漫才師(2000/10/25 水曜日)

漫才Tour://ますだおかだ.アメリカザリガニ.オーケイ.co.jp(名演小劇場、19時開演)へ行く。
NHK爆笑オンエアバトル常連組の松竹三羽ガラス・ますだおかだ、アメリカザリガニ、Over Drive (Over Drive は最近、失速気味だけど)のうち、Over Drive は不参加になり、常連四天王の一端に育って欲しいオーケイが加わっての3組の漫才があった。

名古屋ではオンエアバトルぐらいしか若手の漫才を見る機会はないから、認知度の面でオーケイは不利な立場であったろう。最初のつかみの部分は演者も観客も瀬踏み状態であった。しかしデートのネタに入り、彼女役の小倉が彼氏役の小島をふりまわすようになってから俄然面白くなった。小倉のロボットのような無機質なしゃべりと無表情さが「彼女」のハチャメチャさを倍増させていた。ギャグも畳みかけるようにでてきてよかった。必要なのは「受けないギャグ」を思い切って捨てる勇気だろう。

アメリカザリガニは「コント」のほうが面白いと思う。彼らは「冷静・不活性」vs「熱血・ハイテンション」のキャラがすごく強みであるが、漫才では平井がときどき柳原のほうにひきずられてしまうときがある。コントなら自分たちのキャラをより徹底的に先鋭化した個性に身を包んでテンションの落差を微塵たりとも動かさずに演じきることができるので、そのほうが面白いと思うのだがどうだろうか。

ますだおかだは人の心の中の笑い袋をこじあける術を心得ているのだろうか。ずっと涙を流しながら笑っていた。現役の漫才師で今一番見たいのは誰かと尋ねられたら私は「ますだおかだ」と答えるだろう。「東京ボーイズ」もいいけれど。

大須大道町人祭へ行ったこと(2000年10月15日)

午後4時15分ごろ、万松寺で「猿回し」をみる。3年連続してみている。昨年、一昨年と寸分違わぬ出し物で、去年見たのがつい先日のことのように思えてくる。
ふれあい広場でも大道芸のパフォーマンスをやっていた。人の垣根ごしで少ししか見れないが、すぐに芸人が山本光洋だとわかったのは、さすが元静岡市民である。

レトロ気分を味わえる「二都玉」で夕食をすませて、ふたたび万松寺へ。鏡味小仙社中の江戸太神楽がはじまるところ。頭の上で獅子舞の頭をカチカチとやってもらう。7時からのパフォーマーが目当てで時間つぶしのつもりでこの場に来たのだが、次から次へと目先を変える曲芸が繰り出されてすごく得した気分になった。

サンキュー手塚が見れた。昨年の大道芸ワールドカップIN静岡の優勝者だ。名古屋に移ってからは大道芸ワールドカップに行きづらくなったのですごくラッキーだった。江戸神楽が終わるやいなや女の子3人組がさっと前の場所を陣取った。人気があるのだなあ。パフォーマンスの途中にネタのリクエストの声がとんだ。サンキュー手塚の芸はあまりにもバカバカしすぎてツボにはまるとてつもなく可笑しい。「うめぼし」のネタでは、次の来るべき歌のサビの部分を期待して待つ自分に気づいた。

ダイマル・ラケット

値段が値段だけに悩みに悩んで購入したCD8枚組の「上方漫才黄金時代」を買った当時、収録された中田ダイマル・ラケットの漫才「僕の漂流記」(澤田隆治が選んだ中田ダイマル・ラケット ベスト漫才集では「僕の発明」になっている)をひと月ほど毎日飽きもせずに聴いていた。 中田ダイマル・ラケットには「3秒に一度笑わせる爆笑王」とか「漫才の中興の祖」とかいう形容がつくが、私が物心ついたときには、落魄した芸人のように思えた(注)。幼い頃、「ダイマル・ソゴー」でなく、どうして「ダイマル・ラケット」なのか?とその名前に違和感をもったのを覚えている。

ダイ・ラケをまったく凄いと思ったのは、ずいぶん前にNHKラジオの「懐かしの漫才」特集で「地球は回る・目が回る」を聴いたときだった。これは天動説・地動説論争である。学校やニュートンの権威にたよるラケットの説よりダイマルがあくまでも自分の感覚を信じて繰り出すへ理屈のほうがよっぽどもっともらしい。

「僕の漂流記」でカッパにサンゴをとらせて大儲けするという話

ダイマル:「海にはカッパがおるやろ」
ラケット:「そらおる」

想像上のカッパを「そらおる」と一言で片づけるところも恐ろしい。この録音のとくに前半の聴衆の笑い声がものすごい。破壊的な笑いとはこのことだろう。

最近の漫才は自分たちのキャラや私生活をネタにしたものが多いが、もっと「フィクション」の可能性を追及してもよいのではないか。 宇宙開発をめぐり超大国が姑息な陰謀をめぐらし、労働に疲れたカッパが海にうつろに漂い、親父が息子で孫が弟という複雑な家系図のなかで我を失い、凶暴な電気入れ歯があらゆるものを噛み砕いていく--そんな壮大あるいは奇想天外なイメージを聴き手一人ひとりの頭に咲かせる、ファンタジー溢れる仕事をダイマル・ラケットはセンター・マイク一本でやってのけたのである。

(注)--私がダイ・ラケに同時代的に接することができたのは、朝のラジオ番組のコマーシャルでやってたショート漫才ぐらいだったと思う。もうすっかり忘れたが「あんさん、別れなはれ」で有名な融紅鸞の「悩みの相談室」前後の番組ではなかったか。

中西敏浩のホームページに戻る